旅行前にベトナムの歴史を学習!

旅立つ前にベトナムの歴史を学ぼう!

こんにちは、ベトナムナビです。今回お届けするのは、ベトナムの歴史。日本の学校の教科書にはベトナム戦争くらいしか記述はないかと思います。そのベトナム戦争もどっちが勝ったかと枯葉剤について軽く触れる程度。「実際ベトナムってどんな国?」と疑問に思う方もいるかと思います。ベトナムに行く予定がある方は、少しでもベトナムについて知っておくと、博物館や文化に触れたときに、「知ってる!これ勉強した!」と満足度がアップすることでしょう。

ベトナム最初の国家「文朗国」からすべてははじまる

文朗国(ヴァンラン)と呼ばれる伝説上の国家は、紀元前2879~258年まで続き、歴代フン王が政権を納めていたとされています。これがベトナムの誕生とされていますが、もちろん先史時代の話なので、文朗国やフン王は伝説という見方が基本です。また、フン王は龍と仙女から生まれた神の子であることから、ベトナム人は自分たちが龍の子孫だと信じています。ちなみにベトナムを上空から見落とすと、昇り龍のような地形であることが分かります。その後、文朗国は中国の蜀に滅ぼされ、のちに建国されたのがオーラック国。こちらも紀元前の話で、伝説上の国家とみなされています。ベトナムには国造りや中国軍を撃退する話がたくさん神話、伝説として語り継がれています。

中国による支配の開始

「ベトナムは中国に1000年支配されていた」というセリフはよく聞きますが、それは紀元前111年~紀元後938年、中国の歴史でいう漢から唐までの間を指します。その後、李朝時代を迎え、首都はタンロンに置きます。現在のハノイで、本丸は世界遺産にも登録されています。当時の城下町は現在の旧市街まで伸びていたとされているので、それだけでも大きな国家だったことが分かります。

昔南部はカンボジアだった

現在のベトナムは南北に長い地形をもち、北部は首都ハノイ、中部都市ダナン、そして南部は最大の商業都市ホーチミンがあります。しかし、この国土は11世紀から18世紀にかけて領土拡大によって築かれたものであり、それまでベトナムは北部紅河デルタ以北の領土しかありませんでした。例えば現在のホーチミンがある場所やメコンデルタ地方は、当時はカンボジアでした。このように北ベトナムが800年かけて南へ勢力と領土を伸ばし現在に至ります。これを「南進」と呼びます。

英雄チャンフンダオが生まれた陳朝時代

ベトナムの通りの名称のほとんどは歴代の英雄や将軍、政治力を持った人物の名です。そこでメインストリートとして名を連ねるのが「チャンフンダオ通り」。ホーチミンではベンタイン市場から5区のチョロンまで続く長い目抜き通りですね。チャンフンダオは李朝を倒して新たに政権を握った陳朝時代の人物。度重なるモンゴル軍を撃退した英雄です。

フランス領インドシナ時代

1887年~1945年の間はフランス領インドシナ時代となります。当時ベトナムは1802年から現在のフエに王朝を築いた阮朝が国家を築いていました。フエはベトナム最初で最後の王朝と呼ばれていますが、統治していたおよそ140年以上の間は、中国やフランスに支配されていて、混沌とした政治体制でした。ちなみに、フランスに統治されていたこの時代に、現在のカフェ文化やバインミーなどフランス料理も流入してきました。また、ベトナムの民族衣装であるアオザイもフランスの自由奇抜なセンスが取り入れられて、カラフルで自由なデザインが施されるようになり、いままでの正装という概念にファッションを取り入れました。ただし、フランス領インドシナ時代は
そして、忘れてはならないのが日本とベトナムの関係。フランス支配期の真っ只中にはじまったのが第二次世界大戦。フランスが敗北を認めたのち、日本軍が隙を見てベトナムに入り込みます。これが「仏印進駐」と呼ばれるもの。ご存知の通り、当時日本はとても好戦的で、東アジアと東南アジアの支配を試みていました。日本側は大東亜共栄圏という、いわゆる欧米からの解放を大義名分としてベトナムに進駐しましたが、ベトナムからしてみたら「フランスから解放されたと思ったら、今度は日本かよ」という感じ。しかも、ふたを開けてみたら何故かフランスと日本から二重支配を受ける結果に。現在ベトナムは親日国家として知られていますが、厳密にいえばお年寄りの間では日本を嫌っている方も多数います。日本の進駐は日本が第二次世界大戦に敗北する1945年まで続きます。

革命家ホーチミン氏

自由と独立を掲げた革命家ホーチミン氏。現在ではベトナムの象徴ですが、それでは一体ホーチミンは誰から独立したのでしょうか。それは「日本」と「フランス」です。先ほど日本の進駐をお話しましたが、1945年8月にご存知の通り日本の敗北が決定しました。それに伴い、ホーチミンがベトミンと呼ばれる革命軍を結成して、ハノイやフエといった各地で政権を制圧(ベトナム8月革命)。北ベトナム国、正式名称「ベトナム民主共和国」が誕生し、初代首相にホーチミン氏が選任されました。
しかし、これでめでたしとはいきません。戦争に負けた日本は撤退しますが、戦争に勝ったフランスが再びベトナムを侵略します。フランスが狙ったのはサイゴン(現ホーチミン)を首都とする南部。そして、ホーチミン率いるベトナム民主共和国と、フランスが作り上げた傀儡国家とで戦争が勃発。(第一次)インドシナ戦争です。この戦争は1946年~1954年まで続き、ディエンビエンフーの戦いを経てベトナムがフランスに勝利。敗北したフランスは56年に撤退することになります。

そして始まるベトナム戦争

これでようやく南ベトナムも手に入れたのか……いえ、まだベトナムの国家形成を認めていない国がいます。それがアメリカ。アメリカはフランスが撤退したあとにベトナム共和国(通称:南ベトナム)を作り、反共産主義を訴えました。なぜ反共産主義か。それは冷戦中であったソ連を睨んでのこと。ホーチミンはソ連のマルクスレーニン主義を方針としていたので、いわゆるソ連側でした。ですので、ベトナム戦争は南北統一戦争という名の下にはじまった、自由主義と社会主義、アメリカとソ連の代理戦争とも呼ばれています。
1960年。親米の南ベトナムでは政治の汚職や不正、貧富の差などが蔓延していて、国民は不満でした。しかし、反対を訴えると政府により厳しく弾圧される始末。そこで、決起したのが「ベトコン」。南ベトナム解放民族戦線です。ベトコンはアメリカが名付けた蔑称ですが、現在はベトナム人も普通に呼んでいるので差別には当たりません。そして、お互いに徐々に戦争の準備を開始。引き金をひいたのは1964年トンキン湾事件。アメリカの軍艦が北ベトナムに砲撃されたとのことですが、事実は闇の中。アメリカが戦争の口実を作りたいがためのでっち上げとも言われています。そして、翌年以降大規模な軍事衝突が開始。本格的なベトナム戦争のはじまりです。ちなみにホーチミン氏は1969年に心臓発作で死去しています。

ベトナム戦争の終わりと南ベトナムの終焉

1975年4月30日。北ベトナム率いる軍隊が戦車で南ベトナム大統領官邸を襲撃。この日を持ってきたベトナムの勝利となり、15年続いたベトナム戦争は終戦しました。南ベトナムという一つの国が終わりを迎える瞬間として、当時は世界でその模様は放送されました。年配の方の中には、まだ記憶にある方もいらっしゃるでしょう。その翌年、1976年に南北統一選挙が行われ、北ベトナムが南ベトナムを吸収。現在のベトナム社会主義共和国が誕生しました。旧大統領官邸は「統一会堂」と名前を変え、現在は観光名所にもなっています。

その後~現代

その後は社会主義としてホーチミン思想のマルクスレーニン主義を方針に国家を作り上げていきますが、なかなか立ちなおすことができません。そこで1986年に打ち出したのが「市場開放」。ドイモイ政策と呼ばれるもので、これは民間企業および国民の財産を一部認める画期的な政策でした。これは現在の経済基盤でもあり、ベトナム経済が豊かになる岐路であったことは言うまでもありません。そして、1990年代には日本の女性においてベトナム雑貨が一大ブーム。旅行先としても注目され、ベトナムはハノイが首都ながらも、南部ホーチミンの方が知名度が上がり、また国内最大の商業都市として成長しました。

いかがでしたか。ざっくりですがベトナムの歴史を紹介しました。歴史博物館ではインドシナやベトナム戦争時代の写真や遺産が展示されているので、さらに当時をイメージすることができるでしょう。ベトナムを知り、さらにベトナムを好きになって旅行を満喫していってください。以上、ベトナムナビがお届けしました!
関連タグ:歴史

上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。

記事登録日:2017-03-24

ページTOPへ▲

その他の記事を見る